
【警備員物語87】雨の警備員――降っても休めず、止めば仕事になる。これぞ警備員ブルース
朝から雨だった。
しとしと、という可愛らしいものではない。
空を見ても、止む気配がない。
雨。
雨。
また雨。
警備員になってから、私は雨というものを素直に眺められなくなった。
昔なら、
「今日は雨か」
それだけだった。
いまは違う。
窓の外を見た瞬間、頭の中に浮かぶ言葉がある。
「今日、中止じゃねえか?」
情緒もへったくれもない。
雨音を聞いて詩を書く人がいる。
雨に濡れた紫陽花を撮る人がいる。
恋人と相合傘をする人もいる。
警備員はスマホを見る。
中止の連絡は、まだか。
これが私の雨である。
昨日は雨で中止。今日は雨でも仕事
前の日も雨だった。
土木の現場だった。
中止になった。
工事をしないのだから、警備員もいらない。
実に分かりやすい。
雨が降る。
工事が止まる。
警備も止まる。
私は休みになった。
そして今日。
また雨である。
同じように降っている。
だったら今日も中止だろう。
世の中というものに多少の筋道があるなら、そうなるはずである。
ところが、
今日はある。
建築現場だからである。
しかも搬入がある。
資材か何かを積んだ車両が来る。
台数は、それほど多くない。
しかし、来る。
来る以上、警備員が必要になる。
昨日の雨は私を休ませた。
今日の雨は私を休ませない。
同じ雨なのに。
昨日の雨と今日の雨に、いったい何の違いがある。
空に訊いてみたい。
もちろん答えはない。
雨はただ、
ザーザー降っている。
雨の日の警備員は、空と現場監督の間にいる
警備員は弱い。
雨を止める権限がない。
工事を止める権限もない。
「今日は私の判断で中止とします」
などと言って帰ったら、それこそ私の勤務が永久に中止になるかもしれない。
決めるのは私ではない。
現場である。
だから朝から空を見る。
スマホを見る。
空を見る。
スマホを見る。
電話が来るか。
来ない。
雨は降っている。
電話は来ない。
ということは、
行くのである。
これほど分かりやすい労働もない。
83話で「警備員は水商売」と書いたら、本当に水商売になった
少し前、私はこの『警備員ブルース』で、警備員はある意味「水商売」に似ていると書いた。
需要がある。
比較的仕事に入りやすい。
仕事があれば稼げる。
一方で交通誘導は現場の事情にも左右される。
そんな意味で書いた。
今日は違う。
本当に水商売である。
上から水が降っている。
横からも来る。
車が通れば下からも来る。
水商売どころではない。
水責めである。
カッパを着る。
ヘルメットをかぶる。
誘導棒を持つ。
そして現場に立つ。
雨は、
「本日は64歳なので少し弱めにしておきます」
などという配慮を一切しない。
公平である。
若者にも降る。
老人にも降る。
作業員にも降る。
警備員には、
なぜか余計に降っているような気がする。
搬入車は少ない。だから楽――とはならない
今日の搬入台数は、それほど多くない。
ならば楽ではないか。
そう思うだろう。
ところが、これが微妙なのである。
搬入車が次から次へ来るなら忙しい。
忙しければ時間も進む。
一台入れる。
次が来る。
誘導する。
また来る。
そうしているうちに、
「もう昼か」
となる。
しかし今日のような日は違う。
来ない。
私は立っている。
雨が降っている。
まだ来ない。
少し身体を休めたい。
しかし、
そろそろ来るかもしれない。
来ない。
雨。
来ない。
雨。
遠くを見る。
トラックらしきものが来る。
来たか。
違う。
通り過ぎる。
また雨。
こういう日の時間というものは、どういう仕組みになっているのだろう。
時計を見る。
10時15分。
かなり経った気がする。
もう一度見る。
10時19分。
四分である。
雨の日だけ一時間が百八十分くらいあるのではないかと思う。
忙しくない。でも休めない。それが一番こたえる
警備員の疲れは、動いた量だけでは決まらない。
今日のような日は、それがよく分かる。
忙しくない。
走り回っているわけでもない。
誘導する車も少ない。
それでも、
持ち場を離れられない。
トイレへ行きたい。
でも搬入が来るかもしれない。
ちょっと屋根の下へ入りたい。
でも来るかもしれない。
座りたい。
来るかもしれない。
休憩したい。
来るかもしれない。
そして、
こういうときに限って、
来る。
さっきまで三十分も来なかったくせに、
「ちょっと休めるかな」
と思った瞬間に来る。
トラックには人の心が読めるのか。
そう疑いたくなる。
雨の日の警備は「濡れる」だけではない
雨の日の警備が嫌なのは、単純に濡れるからだけではない。
カッパを着る。
最初はいい。
しばらくすると、外から雨。
中から汗。
だんだん、自分が雨に濡れているのか汗で濡れているのか分からなくなる。
袖口が湿る。
手袋が湿る。
ズボンの裾が濡れる。
靴も怪しくなってくる。
ヘルメットから雨水が落ちる。
スマホも簡単には出せない。
荷物をどこへ置くかも考える。
昼飯をどこで食う。
休憩をどこで取る。
晴れの日なら何でもないことが、一つずつ面倒になる。
そして一番嫌なのは、
靴の中に水が入った瞬間である。
あれはいけない。
一度入った水は、なかなか出ていかない。
歩くたびに、
ぐちゅ。
ぐちゅ。
人間としての尊厳が、足元から少しずつ失われていく。
「雨よ降れ」と「雨よ止め」が同時に存在する
交通誘導警備員にとって、雨は不思議な存在である。
朝、身体が疲れている。
外を見る。
雨。
正直に言えば、
「中止にならないかな」
と思うことがある。
休みたい。
もう一度布団へ入りたい。
今日は身体を休ませたい。
ところが、本当に中止になる。
すると今度は、
「ああ、仕事なくなった」
と思う。
身体は喜ぶ。
財布は悲しむ。
雨よ降れ。
いや、降るな。
中止になれ。
いや、中止になるな。
休ませろ。
いや、稼がせろ。
どっちなんだ。
自分でも分からない。
これこそ、
警備員ブルースである。
雨に濡れながら、日銭を考える
若いころ、雨を見ながら金のことを考えた記憶は、あまりない。
いまは違う。
雨が仕事を止める。
仕事が止まれば、収入にも影響する。
もちろん勤務条件や会社によって扱いは違うだろう。
しかし少なくとも、交通誘導の現場で働いていると、
天気と仕事がつながっている
という感覚がある。
雨雲ひとつで、
明日の予定が変わる。
働けるかどうかが変わる。
私は64歳になって、
空を見ながら自分の仕事を心配している。
考えてみれば、
なかなかの人生である。
昔は広告の企画を考えていた。
店もやった。
宿泊施設でも働いた。
そして今、
空を見上げて、
「頼むから、降るなら中止になるくらい降ってくれ」
などと考えている。
中途半端に降るな。
我ながら、雨に対する要求が細かい。
雨は警備員の人生など知らない
雨は不条理である。
昨日は私を休ませた。
今日は私を働かせる。
雨そのものは何も変わっていない。
変わったのは現場である。
土木だった。
建築だった。
搬入がなかった。
搬入があった。
それだけのことで、
私の一日が変わる。
しかし雨にしてみれば、
そんなことは知ったことではない。
私が64歳だろうが、
もう警備員を辞めたいと思っていようが、
次の仕事を探していようが、
『警備員ブルース』を100話まで書こうとしていようが、
雨には関係ない。
ただ降る。
人生も、案外そういうものなのかもしれない。
こちらの事情などお構いなしに、
降るときは降る。
晴れるまで待っていたら、人生が先に終わる
最近、私は次の人生について考えている。
警備員をどうする。
次の仕事をどうする。
何を始める。
何を書く。
65歳からどう生きる。
しかし、
「条件が整ったら始めよう」
と思っていたら、いつになるか分からない。
金ができたら。
仕事が楽になったら。
時間ができたら。
自信がついたら。
体調が完璧になったら。
天気が晴れたら。
そんなものを全部待っていたら、
こちらの人生のほうが先に終わってしまう。
晴れの日だけ人生をやるわけにはいかない。
雨の日にも一日は進んでいる。
ならば、
雨の中でも少しずつ次へ行くしかない。
私はそんなことを考えながら、
濡れた誘導棒を握っていた。
ちょっと演歌みたいである。
雨の警備員には、演歌が似合う
雨。
濡れた道路。
工事現場。
カッパを着た64歳の男。
遠くから来るトラック。
誘導棒。
これで演歌が流れたら、ほぼ完成である。
タイトルは、
『雨の誘導棒』。
売れそうにない。
B面は、
『今夜も通行止め』。
もっと売れそうにない。
しかし、私には妙に似合う。
若いころはロックが好きだった。
今でも好きである。
だが、警備員を六年近くやっていると、
人生にはロックでは説明できない時間があることも分かってくる。
ただ耐える。
待つ。
濡れる。
それでも働く。
誰にも見られていない。
誰にも褒められない。
それでも、
「お気をつけてどうぞ」
と言う。
これはもう、
ブルースであり、
演歌である。
今日も雨の中に立っている
搬入車が来た。
私は誘導する。
車を入れる。
作業員が動く。
終わる。
また私は元の位置へ戻る。
雨。
待つ。
また一台。
誘導する。
また待つ。
華々しいことは何もない。
人生が変わるような出来事もない。
ただ、
雨の中で一日が過ぎていく。
それでも今日一日働けば、
今日一日の仕事になる。
昨日は中止。
今日は勤務。
明日は分からない。
これが警備員という仕事である。
そして、これが今の私の人生でもある。
これぞ、警備員ブルース
夕方。
そろそろ終わりが見えてくる。
雨はまだ降っている。
私は思う。
人生も同じだ。
雨が降る日もある。
晴れる日もある。
不条理なこともある。
それでも前へ――
などと、少し格好いいことを考えた、そのときだった。
靴の中に、
水が入った。
ぐちゅ。
私は歩いた。
もう一度、
ぐちゅ。
人生論など、
一瞬でどうでもよくなった。
「ああ、帰りてえ」
それが本音だった。
雨に濡れ、
カッパに包まれ、
誘導棒を握り、
トラックを待つ64歳。
昨日は休み。
今日は仕事。
明日は知らない。
雨はまだ降っている。
私はまだ立っている。
誰が聴いているわけでもない。
それでも、私の中では、
今日も一曲流れている。
これぞ、警備員ブルース。
