
朝から、二人も要らなかった。
建築現場というのは、朝のうちは何かが起こりそうな表情をしている。
職人たちが出入りし、どこかで金属のぶつかる音がして、トラックが来るのか来ないのか分からないまま、
警備員はとりあえず立っている。
昨日の現場もそうだった。
警備員は二人。
私と、もう一人。以前このブログで「マウント女王」と書いた女性だった。
私は彼女が苦手だった。
ベテランなので隊長をやったりする。隊長をやれば時々、ミスをする。それでいて人には何かと言う。
こちらが一つ言えば、二つくらい返ってくる。ともかく相手の上を行こうとする。常にマウントを取る。
だからマウント女王、と私はこっそり呼ぶ。
昨日は、若い現場監督がちょっと苦い顔をして言った。
「今日、警備員さん、二人もいらなかったんだよね」
どうやら、発注の手違いで人が多かったようだ。
せいぜい一人いれば大丈夫。
車両の出入りが簡単だったら、警備員不在でも構わなかった。
予定されている車両の出入りも、二回ほどしかないという。
しかも、車両の出入りは昼頃で終わっちゃうという。
「一人は午前中で上がってもらって大丈夫です」
監督が言った。
さて、どちらが帰るのかな、と考えていると、彼女が私に言った。
「帰っていいよ」
私は一応、遠慮するような顔をした。
帰るなら、私が帰りたい。大変帰りたい。
警備員を六年もやっていると、こういうときだけ芝居が上手になる。
「俺が、帰っていいの?」
と言った。マウント女王に先に確認してマウント取る。
マウント女王は、相手の上になりたいから、ちょい偉そうに、うなずく。
「いいよ」
女王の許可が下りた。
やったー、私は昼までの勤務になった。
車の来ない建築現場
しかし、帰る時刻までは仕事である。
車が来ないし、人も来ない。中にいる作業員だけが、内装やら躯体工事やらの手仕事をしている。
ともあれ、われわれは立つ。立哨してるようなふり。
少し経って、やっぱり車は来ない。
立つ必要まであるのかどうか怪しくなってきた。
そのうちマウント女王のすすめもあって、休憩室に入った。
「もう、いいんじゃない」と。
珍しく休憩室に二人きりになる。
私は彼女と何度も現場を一緒にしたことはあるが、こうして一つの場所に落ち着いて休んだ記憶はなかった。
手持無沙汰で、どちらともなく何かを話しはじめる。
初めは警備会社の話だった。
「こんな暇な現場、ひっさびさだなぁ」
「ベテランのあんたには負けるが、俺も6年目だよ、警備員は」
「そして、あの隊員はどうしてる」
「あの隊長はこうだよね」
「そういえば、誰それは最近見ない」
「誰それは相変わらずだ」
警備会社というのは、妙なところである。
昨日まで知らなかった人間と朝から八時間一緒にいて、翌日から二度と会わないこともある。
そのくせ、他人の噂だけは風に乗って、別の現場までちゃんと届く。
私は自分が今の会社の警備員を始めたころの話をした。
59歳だったが、今は、もう六年目になる。
「その前はさ」
彼女が訊くわけでもなく、問わず語りになる。
最初はイベント関係、で長いのが広告代理店勤め、と私は言った。
フリープランナーもやった。それから店の経営もやった。
「店?」
「うん、DJとライブの店」
彼女は少し驚いたようだった。
私は店の話をした。
夢を持って始めたこと。
立地が悪く、なかなか客が来なかったこと。
かれこれそれも5年で、金がなくなったこと。
章もなしに、店を閉めたこと。
明らかに無策の開店は、失敗であったこと。
昔なら、こういう話を人にするのはみっともなくて嫌だった。
警備員をやり、警備員に話す今は、そうでもない。
失敗から時間が経ったせいなのか、警備員を六年やったせいなのか、
それとも私が歳を取っただけなのか。
どうやらわかってきたのが、失敗というものも長く持っていると、角が取れる。
失敗は年を取るとそれなりに皆、増えてゆく。失敗者は、成功者にはあまり会うことはない。
警備員、特に年食った警備員は、成功者、というよりは失敗者に近い人が多いのではないか。
だから、失敗に関しては、皆、角が立たない。まさ、石ころみたいなものだ。
そう、警備員は石ころみたいなものだ。
握ったばかりのころは手を切るが、何年も転がしているうちに、だんだん丸くなる。
彼女は黙って聞いていた。
それから、
「私はね」
と、ポツポツと自分の職業歴の話を始めた。
マウント女王の前歴
保険の営業をやっていたことがあるという。
飲食チェーンにもいてウェイトレスで働いた。
ほかにも、いくつか仕事をしてきたらしい。
私は初めて聞いた。彼女が自分の履歴の話をするのは全く初めて聞いた。
考えてみれば、私は彼女のことを何も知らなかった。
知っていたのは、警備服を着た彼女だけだった。確かに警備員同士、そうそう自分の話をするわけでもない。
打ち解けて仲良くなっても、さほど、深い話はしない。
ああ言った。
こう言った。
あのとき腹が立った。
隊長なのにミスした。
私が知っていた彼女という人間は、その程度のものでしかなかった。
ところが、その人にも警備員になる前の人生があった。
当たり前である。
当たり前なのだが、妙に新鮮だった。
保険会社にいた彼女。
飲食店で働いていた彼女。
若かった彼女。
失敗したこともあったのだろう。
嫌な客もいただろう。
仕事を辞めた日もあっただろう。
家へ帰って、
「もう嫌だ」
と思った夜もあったかもしれない。
そして何年も経って、警備服を着ている。
私も同じだった。
広告をやっていた。
企画書を書いていた。
店を持った。
カウンターの向こうに立った。
地方でホテルの仕事もした。
いろんなところを通って、
なぜか今、
この女と二人で建築現場の休憩室にいる。
お互い、若いころには想像もしなかっただろう。
人生は、ときどき随分と変なところへ人を配属する。
しかも本人には、事前に現場住所さえ知らせない。
警備服の中に、その人の人生が入っている
話しているうちに、不思議なことが起きた。
彼女が、以前ほど嫌な人間に見えなくなってきた。
いや、性格が変わったわけではない。
昨日もマウント女王はマウント女王である。
たぶん今日会えば、また何か言われる。
私もまた、
「うるせえな」
と思うかもしれない。
ただ、その奥に別の人間が見えてしまったのである。
一度見えてしまうと、もう完全には元へ戻れない。
人を嫌うのは簡単だ。
「あいつは嫌な奴だ」
と決めればいい。
一行で済む。
しかし、その人がどこから来たのかを知ってしまうと、話が面倒になる。
保険営業をしていた。
飲食店でも働いた。
いろいろあって、今ここにいる。
そんなことを知ると、
「嫌な奴」
の四文字だけでは収まらなくなる。
人間とは、まことに面倒な生き物である。
最後の一台
昼前になって、最後のトラックが来た。
われわれは休憩室を出た。
彼女が向こうを見る。
私はこちらを見る。
歩行者を確認する。
誘導棒を出す。
トラックがゆっくり動く。
さっきまで人生について話していた二人が、何事もなかったような顔をして一台のトラックを誘導している。
それがおかしかった。
いや、おかしくはない。
仕事だから当然である。
しかし私は、その光景をどこか少し離れた場所から見ているような気がした。
広告屋だった男と、
保険営業だった女が、
建築現場でトラックを誘導している。
ずいぶん遠くまで来たものだ。
トラックは出ていった。
それで私の仕事は終わった。
彼女が監督のところへ行った。
若い監督と何か話している。
やがて戻ってきた。
「もう帰っていいよ」
許可が出たらしい。
私は着替えた。
早かった。
警備員になって六年、私は仕事が終わった直後の着替えだけは、かなりの熟練者になった。
荷物をまとめて、現場の出入口へ向かった。
外は昼になっていた。
彼女はもう立哨に戻っていた。
私はその横を通る。
「じゃ、お先に」
そう言った。
彼女がこちらを見た。
そして、
ニコッと笑った。
早く帰れて、よかったね
たった、それだけだった。
けれど、その顔は、
早く帰れて、よかったね。
と言っているように見えた。
彼女は残るのである。
私は帰る。
こちらだけ半日で仕事が終わるのだから、面白くなくても不思議ではない。
なのに笑った。
私は少し拍子抜けした。
これまで私が見ていたマウント女王とは違う顔だった。
現場を出た。
歩きながら、なぜかあの笑顔が残った。
たいしたことではない。
誰かが笑った。
ただそれだけである。
しかし六年間警備をしてきて、こういう瞬間が時々ある。
一日だけ一緒になった人。
最初は嫌だった人。
名前もろくに覚えていない人。
そういう人間が、突然こちらの心の中へ少しだけ入ってくる。
そして、すぐ別れる。
警備という仕事は、案外そういう仕事なのかもしれない。
警備員をやっていなければ、会わなかった
帰りの電車で考えた。
もし店がうまくいっていたら、私は警備員になっていない。
広告の仕事を続けていても、ここにはいない。
人生が私の計画どおり進んでいたなら、昨日の建築現場には立っていなかった。
そうすれば、彼女にも会わなかった。
あの休憩室もなかった。
保険営業の話も聞かなかった。
最後のトラックも来なかった。
あの笑顔もなかった。
だからといって、
店を潰してよかった、
などとは思わない。
そんなきれいな話にするつもりはない。
失ったものは大きかった。
今でも後悔している。
しかし、失敗した人間には、失敗した人間にしか通らない道があるらしい。
その道の途中にも、人は立っている。
昨日は、そこに彼女がいた。
私はこのところ、警備員を辞めることを考えている。
身体もきつくなった。
別の仕事へ行きたい。
それでも昨日だけは、
警備員をやっていて、よかったような気がした。
人生を変えるような出来事があったわけではない。
誰かに救われたわけでもない。
午前中で帰った。
それだけである。
ただ、帰り際に一人の女が笑った。
その笑顔を見て、
私は六年近く「警備員」としてしか見ていなかった人たちの制服の中にも、それぞれ長い人生が入っているのだと、今さらのように思った。
昨日の現場は、本当なら警備員一人で足りた。
発注ミスだった。
会社から見れば、余計な一人だったのだろう。
現場から見ても、余計な一人だった。
その余計な一人が、私だった。
だから私は昼に帰った。
けれど――
もし最初から一人だったら、
あの話はなかった。
あの人の昔も知らなかった。
あの笑顔も見なかった。
だから昨日に限って言えば、
発注ミスも、
そう悪いものではなかった。
警備員は二人も要らなかった。
それでも、
人生のほうには、二人必要だったのかもしれない。
昨日は二人現場。
そして昨日だけは、
二人で、ちょうどよかった。
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➡「ベテランの証明」ミス隊長さん。あるいはマウント女王。
