
今日は埼玉県郊外の住宅地で、道路工事の警備だった。
交通量は少ない。
私は通行止めの場所に立ち、車が来れば説明し、歩行者が来れば案内する。
誰も来なければ、ただ立っている。
平和である。
警備員にとって「何も起こらない」のは、めでたいことだ。
ただ、何も起こらなすぎる。
暇である。
そんなとき、目の前の小綺麗な物置小屋に、一人の男性がやってきた。
50代くらいで、恰幅がよく、気さくそうな人だった。
鍵を開けて中に入り、掃除を始める。
私は警備。
向こうは物置掃除。
それぞれの持ち場で働いていた。
しばらくすると、男性がこちらへやってきた。
「今日の工事は何?」
「ガスですね」
ここからだった。
警備員、住民に事情聴取される
「警備、大変ですね」
「まあ、大変ですねえ」
「立ってるだけじゃなくて、交通誘導もやるの?」
「やりますよ。片側交互通行とか」
そこから男性はいろいろ聞いてきた。
年代は?
子どもは?
前は何をやっていたの?
おいおい。
これは警備員への職務質問か。
しかし、不思議と嫌ではなかった。
詮索というより、目の前の警備員に興味を持って話しかけている感じだった。
だから私も、つい話した。
昔、広告の仕事をしていたこと。
フリーのプランナーをやっていたこと。
事業に失敗したこと。
店を経営していたこと。
DJバーのような店で、若い連中と音楽をやっていたこと。
そして、仕事のブランクから再就職が難しくなり、最後には警備員になったこと。
普段、通行止めの前でする会話は、
「ここ通れません」
「迂回お願いします」
それで終わる。
ところが今日は、なぜか人生を喋っている。
すると男性が言った。
「で、また事業、やらないの?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「また事業、やらないの?」
最近、そんなことを真正面から聞かれたことはなかった。
警備員をしている。
だったら警備員。
それで話は終わる。
自分でも、いつの間にかそう思っていたのかもしれない。
しかし、この男性は違った。
「大変だったね」でも、
「警備も立派な仕事ですよ」でもない。
「で、また事業、やらないの?」
まるで、
「次は?」
と聞かれたようだった。
男性自身も、自営でやってきた人らしい。
道路脇の物置小屋と通行止めの看板の間で、元自営業者二人が人生について話している。
なんなんだ、この光景は。
一生懸命掃除すれば、小遣いになる
男性はまた物置小屋へ戻り、掃除を始めた。
聞けば、その物置は敷地内にあり、人に貸しているらしい。近くのアパートも彼の家の物件のようだった。
それまで住人がオートバイを保管していたが、新しい借り手が入るので掃除しているという。
「一生懸命掃除すれば、小遣いになるから」
そう言っていた。
いいなあ、と思った。
大金を稼ぐ話ではない。
掃除をする。
きれいにする。
誰かが借りる。
少し金になる。
それでいい。
商売とは、本来こういうものなのかもしれない。
私は道路に立ち、男性は物置を掃除した。
工事は進み、ダンプが来て、土が運ばれ、砕石が入り、アスファルトが敷かれる。
ガガガガガガ。
ドドドドドド。
やがて工事は終わった。
なぜか、お礼を言いたくなった
工事箇所の近くで集合写真を撮り、解散した。
みんなが着替えて帰り始める。
私も駅へ向かおうとした。
しかし、どうも気になる。
あの男性に、もう一度会ってから帰りたい。
私は彼のいるほうへ歩いていった。
物置小屋の前では、男性がまだ掃除をしていた。
さっきまで床に散らばっていた細かなゴミが、隅に集められている。棚の上も拭かれ、入口から差し込む夕方の光が、少しだけ明るく見えた。
男性は手を止め、こちらを見た。
「今日は、お話ありがとうございました」
そう言うと、彼は、
「また近くで工事があったら来てください」
と言った。
工事現場に、同じ警備員が都合よく戻ってくることは、まずなかなかない。
たぶん、もう会わないだろう。
そう思いながら会釈し、帰ろうとした。
数歩歩いたところで、後ろから男性の声がした。
「また、事業で頑張ってください」
なんだろう、この感じは
駅へ向かって歩いた。
最初は、いつもの帰り道だった。
工事用のヘルメットを脱いだ頭に、夕方の風が当たる。足は重い。朝から立ちっぱなしだったので、ふくらはぎも張っている。
それなのに、さっきまでとは少し違っていた。
男性の声が、何度も耳の奥で繰り返された。
「また、事業で頑張ってください」
事業資金をもらったわけでもない。
仕事を紹介されたわけでもない。
経営ノウハウを教わったわけでもない。
ただ、初めて会った人に、そう言われただけだ。
それなのに、胸の奥にしまい込んでいたものを、そっと引き出されたような気がした。
私はこれまで、事業に失敗したことを話すとき、どこかで話を終わらせようとしていた。
「昔はまあまあ、やっていたんです」
「でも、失敗しまして」
「今は警備です」
そこまで言えば、相手もそれ以上は聞かない。
私自身も、それで助かっていた。
失敗した過去を説明しながら、同時に、もう終わったことにしていたのだ。
けれど男性は、そこから先を聞いた。
「また、やらないの?」
その言葉を思い出すたび、胸の奥に小さな違和感が残った。
嫌な違和感ではない。
長いあいだ閉めたままにしていた扉を、外から軽く叩かれたような感じだった。
警備員になったから、出会った人
警備員を始めたころ、こんな仕事をいつまでやるんだと思っていた。
早く辞めたいと思ったこともある。
暑い。
寒い。
足は痛い。
トイレはない。
朝は早い。
遠い。
なんで俺がこんなところに立っているんだ。
そう思う日もある。
だが今日、この場所に警備員として立っていなければ、あの男性とは話していなかった。
人生とは妙なものだ。
嫌で仕方なかった道を歩いていたら、その道端で思いがけない人に会うことがある。
その人が、ほんの一言を置いていく。
そして、その一言が妙に残る。
警備員になったからこそ、今日の私は物置小屋の前に立っていた。
警備員になったからこそ、男性は私に話しかけた。
そう考えると、これまでの時間を全部、失敗だったことにするのも違う気がした。
また、やればいいじゃないか
私はもう若くない。
事業にも失敗した。
ずいぶん遠回りもした。
警備員になって、何年も経った。
いつの間にか、
「もう、このくらいでいいか」
と思っていたのかもしれない。
大きな夢を持つと、また失敗するかもしれない。
何かを始めれば、また誰かに迷惑をかけるかもしれない。
そう考えているうちに、始めないことが一番安全になっていた。
でも今日、
「また事業、やらないの?」
と聞かれた。
失敗したからといって、二度とやってはいけないわけではない。
年を取ったからといって、始めてはいけないわけでもない。
何をやるかは、まだ決まっていない。
いつ始めるかも、わからない。
だからといって、今すぐ何かを大きく始めるつもりもない。
警備の仕事を辞めるつもりもない。
ただ、帰ったら昔の資料を一度開いてみようと思った。
捨てずに残してある企画書や、店をやっていたころのメモが、どこかにあるはずだ。
それを見て、何も思わなければ、それでいい。
何か思うことがあれば、そのとき考えればいい。
そのくらいでいい。
駅へ向かう途中、私は何度か立ち止まりそうになった。
スマートフォンを取り出して、メモを開いた。
けれど、すぐには何も書けなかった。
「また事業をやる」
そう入力するのは、少し大げさに思えた。
代わりに、短く一行だけ打った。
「昔の資料を探す」
それだけだった。
画面を閉じる。
歩き出す。
大きな決意が生まれたわけではない。
不安が消えたわけでもない。
ただ、長いあいだ動かなかったものが、ほんの少しだけ動いた。
物置小屋の前でもらった言葉を、もう一度思い返す。
「また、事業で頑張ってください」
私は心の中で、その言葉に小さく返した。
また、やる。
何をやるのかは、まだわからない。
いつ形になるのかも、わからない。
明日になれば、また迷うかもしれない。
それでも、帰ったらまず、昔の資料を探してみようと思う。
駅のホームに立つ。
電車の音が近づいてくる。
私はスマートフォンのメモを開き、さっきの一行をもう一度確認した。
「昔の資料を探す」
それから画面を閉じた。
電車が来る。
私は、いつものように乗り込んだ。
ただ、今日は少しだけ、帰る場所が違って見えた。
警備員ブルースは、まだ終わらない。

