
工事現場という場所は、不思議なところだ。
朝は「おはようございます。」から始まり、夕方は「お疲れさまでした。」まで。
その間、警備員は人、自転車、クルマの交通を誘導し、歩行者に頭を下げ、車を止める。
何時間も立ちっぱなしだ。ただ立ちっぱなし
だから私は、警備会社に入るまでは、この仕事には文化の匂いなど一つもないと思っていた。
ところが、それは大きな勘違いだった。
ある日、一人の女性警備員と同じ現場になった。
仮に、彼女を「ダンシングプリン」と呼ぶことにしよう。
最初から、話す表情、立ち姿、歩き方が「踊っている」感じがするのだ。
いや、実際、通行止めで立っていても、いつもではないが、たまに踊っている。
一番最初は、ごく普通の世間話で話しかけてきたのだった。
「前は何をやっていたんですか。」
そう聞かれたので、私は広告代理店に勤めていたこと、企画やコピーを書いていたことを話した。
すると彼女の目が少し輝いた。
「へえ、面白そう。」
そこから話は意外な方向へ進んだ。
広告代理店に入る前、セミナー会社にいてセミナーを企画していたこと。
その後、レーザー光線の会社にいたこと。
テレビ局によく通ったこと。同年代ならよく知る歌謡番組「ザ・ベストテン」とか。
そして、広告代理店に入った。
表現するモノを作りたかった。そのきっかけは、
映画。
音楽。
小説。
ジャズ。
ロック。
ライブハウス。
好きな監督。
好きな作家。
工事現場の片隅で、誘導棒を持ちながら、そんな話をするとは思わなかった。
私は警備員になるまで、文化的な話をする相手は、もうほとんどいなくなったと思っていた。
だから少しうれしかった。
現場が終わる頃には、すっかり話が弾んでいた。
プリン一つで付いたあだ名
ある日の一緒の現場の帰り道、最寄り駅の近くにカフェが見えた。
「ちょっとコーヒーでも飲みませんか。」
私が誘うと、彼女は気軽にうなずいた。
現場帰りの作業服のまま入った小さなカフェ。
私はコーヒーをごちそうした。
すると彼女がメニューを見ながら言った。
「プリンも食べたいな。」
その一言が妙に可笑しかった。
「じゃあ、それも。」
私は笑いながらプリンもごちそうした。
それ以来、私は彼女を「プリン」と呼ぶようになった。
もちろん本人の前では言わない。
心の中だけのニックネームである。
それでも私の中では、本名より「プリン」のほうがしっくりくるようになった。
共通点が多すぎた
話をしているうちに、共通点がいくつも見つかった。
彼女も離婚を経験していた。
そして三人の娘さんがいるという。
もうみんな独立しているそうだ。
私にも娘がいる。
家族のこと。
離婚のこと。
年を重ねてからの生き方。
そんな話も自然とできた。
お互いに人生をやり直している途中なのかもしれない。
だから無理に励ますこともない。
「分かる。」
その一言だけで十分なことがある。
警備の現場では、何時間も立っている。
その長い時間の中で、ぽつりぽつりと人生を話す。
急いで結論を出さなくていい。
その距離感が、私には心地よかった。
ダンシングプリン
彼女には、もう一つ特徴があった。
体を動かすことが好きなのだ。
現場でも、リズムに乗るように歩く。
信号待ちのほんの数秒でも、音楽が聞こえているような身のこなしをする。
疲れているはずなのに、どこか軽やかだ。
私は心の中で思った。
「この人、踊ってるな。」
それ以来、「ダンシングプリン」という名前になった。
工事現場に音楽は流れていない。
聞こえるのは削岩機の音とダンプカーのエンジン音くらいだ。
それでも彼女の中には、いつも何かのメロディーが流れているようだった。
人生は、まだ踊れる
警備会社へ入る前、私は思っていた。
ここには人生をあきらめた人ばかりいるのだろう、と。
でも違った。
怒鳴る元板前もいる。
仕切りたがるミス隊長さんもいる。
そして、工事現場で文化の話をし、人生を語り、心の中で踊り続ける女性もいる。
制服はみんな同じだ。
けれど、その中に詰まっている人生は一人ひとり違う。
だから私は、現場へ行くのが少しだけ楽しみになった。
今日はどんな話が聞けるだろう。
今日は誰の人生に出会えるだろう。
警備の仕事は道路を誘導する仕事だ。
だが私にとっては、人と人が出会う交差点でもある。
ダンシングプリンは、そのことを教えてくれた最初の女性警備員だった。
